心斎橋プランタン
心斎橋プランタンは、かつて心斎橋筋にあった喫茶店だ。
間口5m、奥行40m(店舗部は24m)
設計 :村野藤吾氏
施工年:1956年(昭和31年)
施工 :大成建設
延床面積:541m2
地上3階
”心斎橋プランタンは、多くの人で賑わう心斎橋筋に面して
接客の機能を持つ浪花組社宅として計画された。”
”入り口のドアを開けると、階段と吹き抜けにより、ドラマティックな空間が出現した”
入り口から中2階へ上がる。藤の背もたれの椅子に座りテーブルに
家族4人が向かい合って座った。
椅子もテーブルも村野藤吾氏のデザインだ。
私が生まれて初めて食べたハンバーガーは心斎橋プランタンのものだった。
ハンバーガーは厨房で焼いたぶあついものだった。
添えられていたのはポテトチップスだったと思う。
これも厨房で作られた揚げたてのアツアツだった。
他の店では大人しく腰掛け食事したが、プランタンの階段は行くたびに
興味をそそられ、叱られるのを覚悟で、上がったり降りたり
また手すりから身を乗り出し見下ろした。
“村野がかつて語った「階段の極意は段裏にあります」との言葉が実証されていた。”
階段の手すり子柱部分は、一面編み込んだ藤細工が貼られていた。
藤細工と黒光する竹の手すりと
子柱上部に巻かれた竹の螺旋階段は、映画のセットのようだった。
“藤巻きによる階段手すりは、同時期の読売会館にも見られ、手前と奥の2箇所の階段により中2階の客席は浮遊感を漂わせる。”
お手洗いに行きたくなると奥の階段へ進む。
4-6歳の子どもには大冒険だった。
厨房で調理しているコックさん達を見るのも好きだった。
お手洗いの往復のわずかな時間だったが、ゆっくり歩きながら横目で
じっと見ていた。
壁にかかったポスターや絵画を見るのも楽しかった。
ロートレックのムーラン・ルージュや踊り子を知ったのも、心斎橋プランタンだ。
1956年に開業し、2003年閉店 現在建物はない。
2008年ごろ、閉店を知らずに探して歩き、店舗のあった場所を何往復もした。
毎週末、家族で心斎橋プランタンに行った。
ハンバーガーを食べた後はバニラアイスクリームだ。
バニラビーンズが入ったアイスクリームと、添えられたジンジャー風味の
細長い半月のような形のビスケット。
ビスケットでアイスクリームをすくって食べるのがお気に入りだった。
お土産は3色ババロアやビターな板チョコが入ったパン・オ・ショコラが定番だった。
顔を食べるのも尻尾をちぎるのも嫌だったから、どうぶつパンは好きではなかった。
このせいか、顔を投げて悪者を懲らしめるアニメが嫌いだ。
同じ村野藤吾氏による設計の、戎橋プランタンがあった。
こちらは難波と戎橋の中間の路地を西に進んだ場所にあった。
明るく開放的な空間で、心斎橋プランタンの薄暗い秘密めいたものと対照的だった。
心斎橋プランタンはいつまでもあるものだと思っていた。
心斎橋になくてはならないお店だと思い込んでいた。
あまりに馴染んだ店だから、私は写真を撮ったことがない。
大人になってからも心斎橋に行くと必ず寄った。
村野藤吾氏の作品だと知ったのは随分あとだ。
インターネットが普及してからは、どこかに誰かがプランタンのことを
書いてないか探した。少ないながら当時の写真が出てきた。
パン職人さんが独立して天満プランタンをされていることもわかった。
プランタン天満店(西仲珈琲)
大阪市北区天神橋4-4-1
JR天満駅から33m
「村野藤吾 建築案内」
綿業会館(渡辺節建築事務所時代)
都ホテル(現在はウェスティン都ホテル京都)
志摩観光ホテル(現在は志摩観光ホテルクラシック
山崎豊子「華麗なる一族」冒頭に出てくるホテル)
心斎橋そごう(そごう大阪本店)
難波新歌舞伎座
近鉄上本町ターミナルビル(近鉄百貨店上本町店)
阿倍野センタービル
大丸神戸店
大阪ビルヂング(八重洲口)(現在は八重洲ダイビル)
自分が知っている建物、馴染みのある建物だけでも書ききれない。
「村野藤吾 建築案内」には135の作品が掲載されている。
現存する建物81作品は地図が巻末にある。
ここに掲載されているプランタンの写真は多比良敏雄氏の提供と巻末にあった。
多比良敏雄氏は建築写真家で、村野藤吾氏の作品を多数撮っていらっしゃった。
私は心斎橋プランタンを探し求めて、この本を買った。
“”内の太字文章は村野藤吾建築案内から抜粋引用させていただきました。